一般社団法人たかひらネット

理事長高比良 拓重 TAKAHIRA Takushige

理 事高比良 八惠子 TAKAHIRA Yaeko

略歴)高比良 拓重 たかひら たくしげ

1973年 九州大学工学部 卒業
1986年 長崎大学医学部 卒業
2001年 たかひら内科循環器科 開院
2020年 同院 閉院
2021年 一般社団法人たかひらネット 設立
2023年 ほっとHOTスクエア長崎駅前 開設


紹介記事(たかひら拓重の10数年も前の話ですが……) 長崎新聞2008年2月29日から引用

生まれは現在の長崎市蚊焼町。五歳のころ転居し、同市中心部で育った。今は同市大浦町で医院を営む。医師になる前は、北九州市の工場の現場で働いていた。異色とも言える経歴は、高校卒業後に進んだ九州大(福岡市)で遭遇した、ある“事件”から始まった。

エンジニアを志して同大工学部に進学。二年生だった1968年6月、キャンパス内で建設中の施設に、近くの基地に着陸しようとした米軍機が墜落、炎上した。

当時、学長が先頭に立ちデモ行進する抗議運動に発展。全国でベトナム戦争に反対する学生らの全共闘運動が激しさを増していた中、同大でもこの事故を機に運動の火が燃え上がった。

「初めはノンポリ(政治的無関心)だったが、社会の中にいることを初めて現実として感じた」と、自身も運動に加わった。次第に運動に熱中し、デモで逮捕されたこともあった。「当時の社会的矛盾への反抗だった。学生という恵まれた立場だったが、底辺の人は多かった。差別する側に立ちたくない、社会的弱者とつながりたい、と考えていた」

2年遅れで1973年3月卒業。同時に結婚したが、就職は決まっていなかった。気が付けば、一緒に運動した学生の多くが就職を決めていた。底辺の労働者との“つながり”を目指し、同年5月に高卒資格で北九州市の金属工場に職を見つけた。2年後、別の会社に転職。だが30歳で急性肝炎に倒れ、2度にわたって入院した。

このころ2人の子どもを授かった。「病気になって将来を考えた。妻子と生活を支えなければならない。もしまた再発したら…」。振り返れば学生運動も仕事も、がむしゃらだった。「組織の中でなく個人で理想を実現できないか」。考えた末、2度目の入院の後、医師を目指すことを決意。帰郷し1980年、31歳で長崎大医学部に入学した。

1986年に卒業、勤務医を経て開業した。「遠回りをした」と人には言われる。だが「局面ごとに自分なりの選択をしてきた。未熟だったとしても、精いっぱい生きてきた」と後悔はない。「妻にはずいぶん迷惑を掛けたが」とほほ笑む。

振幅の大きかった半生は濃密で、ひと言で表せない感慨もある。ただ「弱者の手助けをしたい、という気持ちは学生時代から変わらない」と言う。「患者と同じ目線で、寄り添うような医療」という理想を、今は追いたいと思っている。